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COFFEE BREAK
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エッセイ*林望【喫茶店とカフェ。】
じつは、私は長いことコーヒーから遠ざかって暮らしていた。遥かな遥かな昔の学生時代には、コーヒーは一日に何杯も飲んでいたし、なにかといえば「学生街の喫茶店」に屯してコーヒーを飲み、タバコをくゆらしつつ、無駄な議論に熱を上げたりしていたものであった。
しかし、その後24歳のときに、タバコをきっぱりと断ち、ついでにコーヒーも飲まなくなった。ことにイギリスに留学して以来は、まったくの紅茶党となって、一服のお茶は紅茶か緑茶、そんなふうにして三十年あまり、コーヒーとは無縁な暮らしをしていたのである。
ところがこの数年、再び私はコーヒーに親しむようになった。それにはちょっと特殊な事情が関与している。
私は昔からひどい頭痛持ちで、各種の頭痛薬を手放せない暮らしをしていたのだが、数年前に、いつも服用していた頭痛薬を飲んだところ、突然に顔面が腫れ上がるという奇禍に見まわれ、慌てて医者に駆け込んだところ、これは鎮痛剤のアレルギーで、もしこれが気管支にでも発症していたら、いわゆるアナフィラキシーショックで命に関わっていたぞと脅かされ、以後服用は厳しく禁じられてしまった。さあ、そうなると、この頭痛との付き合いが困ったなあと思っていたある日、軽い頭痛が起こってきたときに、友人の勧めでドリップしたコーヒーを飲んでみたら、なんだか痛みがスッと楽になった。なるほど、コーヒーも大昔には薬だったんだろうなあと、私は『コーヒー・ルンバ』の文句など思い出しながら、それからは、まあ一種の薬として、折々にさまざまの豆でコーヒーを淹れて楽しむようになった。
こうなると、なるほど長いことコーヒーを飲まずにきたのは、あまりにも頑ななことであったと思い直し、それからは、外で一休みするときも、長らく足を踏み入れなかったカフェの扉を開くようになった。
昔は、喫茶店というと、薄暗くてジャズなどが流れていて、コーヒーの薫りとタバコの紫煙とが綯い混ぜになった、独特の空気があったものだが、時代は変わり、そういう昔風の喫茶店はだんだんと姿を消して、はるかに清爽な空気の、明るいカフェが多くなった。
よくよく案じてみれば、コーヒーの命は、いうまでもなくあの芳香である。アロマである。もちろん、複雑に五味の混交した味わいもさることながら、コーヒーを抽出しているときの、得もいわれぬ薫りは、つくづくこの飲み物の素晴らしさを実感させてくれる。
それが、もしタバコの煙の脂臭い臭気によってかき消されてしまったら、ほんとうにがっかりというものだ。思えば、昔の喫茶店は、コーヒーを楽しむというよりは、あの一種文学的芸術的な雰囲気を楽しむための場所であったのかもしれない。
しかし今は、もはやそういう時代ではない。とくに最近は、純粋にコーヒーの美味を追求する、求道者のようなカフェの主が増えて、したがって店内完全禁煙という店もごく当たり前になった。それこそは、カフェのあるべき姿であって、私はコーヒーを再び嗜むようになってからも、完全禁煙でない店には決して入らない。せっかくのコーヒーの薫りを、あのタバコの悪臭で消されてはたまらないからである。
時代は、すっかり変わったのである。
最近は、そうして、東京ばかりでなく地方の町や里にも、とくに若い人たちが経営している優れたカフェが増えた。まことにご同慶の至りと申すべきである。
私は夏の間、信州信濃大町の山荘に暑を避けながら執筆をする生活であるが、この古い山の町にも、近頃良いカフェが何軒もできた。
そのなかで、Uという新しいカフェは、まだ若いオーナー夫妻が、しごく真面目にコーヒーを淹れてくれる。大きな焙煎機が備えられ、豆の種類も煎り方も、ずいぶん数多く用意してあった。私はさっそくこの店に何度か通って、いろいろな豆のコーヒーを試みた。
そのうちに、オーナー夫妻ともぼつぼつ話をするようになり、聞いてみると、もともとウインタースポーツの趣味が嵩じてこの町に移り住み、こうやって町の片隅にカフェを開いて、いろいろコーヒーの勉強をしているのだと、楽しそうに話してくれた。
その豆の煎り方、また抽出するときの温度など、ほんとに熱心に心を込めて一杯のコーヒーを淹れてくれる。私はブラックというのが今も苦手で、必ずクリームと少しの砂糖を入れて飲むのだが、そのクリームも十分吟味されていて、まことに好ましかった。
こうして、学生時代に訳もわからず飲んでいたコーヒーと、今の空気清爽なカフェでじっくりと味わうコーヒーとは、似て非なるもので、コーヒーについて言えば、嗚呼、良い時代になったなあという感慨がある。
1949年生まれ。作家・国文学者。慶応義塾大学大学院修了。『イギリスはおいしい』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。古典論、エッセイ、小説の他、歌曲等の詩作、能楽、料理書等、著書多数。最新刊『謹訳平家物語』。