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COFFEE BREAK
文化-Culture-
エッセイ*水野仁輔【コーヒーと恋愛、とカレー。】
「コーヒーはブラックに限るよね!」
そう言ったのは、ひとつ年下の妹だった。僕が高校生のときのことである。家族の雑談でコーヒーの話になったとき、母と二人で砂糖入りのコーヒーがどれだけ飲むに値しないものなのかを主張したのである。僕の前で勝ち誇ったように。あのとき、僕にはリビングの柱の陰から敗北感がこっそりこちらを覗いているのが見えた。くそお、年下のくせに生意気なことを言いやがって。それまでコーヒーといえば、コンビニの甘い缶コーヒーくらいしか飲めなかったのだから無理もない。なんでもない会話の断片は、意外にもずっと僕の心の片隅に突き刺さったままでいた。
ブラックコーヒーを飲むというのは、僕にとってカレーにらっきょうをつけて食べるのと同じくらいオトナな行為だった。苦味の効いた味わいをどうしても受け入れられなかったのだ。大学に入ってテレビ局で雑用のアルバイトを始めたとき、転機がやってくる。報道番組の狭い制作室には、当時、タバコとコーヒーの香りが充満していた。夜を徹し、朝のニュースに備えるその部屋で、僕は毎晩、何杯ものコーヒーを飲んだ。もちろんブラックで。いや、決して好きになったわけではない。ここは修業の場だと決め込んで、無理をして飲み続けたのである。あれがいい訓練になったのか、いつしかコーヒーをブラックで飲むのは当たり前の行為になっていた。
コーヒーに興味を持ったのは、学生時代に好きで聴いていたバンド、サニーデイ・サービスに「コーヒーと恋愛」というタイトルの曲があったからだ。コーヒーのある風景をボーカルの曽我部さんがしっとりとそして軽やかに歌う。その後、獅子文六の大衆小説に同名のものがあることを知って読んだ。ああ、この小説の影響で生まれた歌だったのかもな。そんな風に想像したりしながら曲を聴き、コーヒーを飲んでいるうちにすっかり僕自身が影響を受け、コーヒーにはまってしまっていたのだ。
一度興味を持つとのめり込むタイプだから、間もなく僕は下北沢のコーヒー豆専門店へ足を運ぶようになった。大枚をはたいて、電動ミルも買った。炒りたてを買ってきて自分で挽いた豆の香りは、信じられないくらい心地よく、バイト先の制作室の記憶は吹き飛んでしまいそうになった。あの頃の僕は、コーヒー以上にカレー作りに夢中だった。あるとき、自宅に買い込んであるスパイスを挽きたくなって、ふとコーヒーミルが目に入った。いけない、いけないよな......と思いつつ、クミンシードをざらざらと入れてスイッチを回す。
ウィーン、ガガガー、ズリズリズリ。いつもより少しだけ軽やかな音がしてきれいなパウダースパイスができあがった。一瞬の感動を味わった直後に、僕は当たり前のことに気がついた。クミンパウダーはほんのりとコーヒーの香りがする。必然的に次にコーヒー豆を挽けばコーヒーはほんのりとクミンが香ることになるのだ。それも悪くないという気がしてしばらくミルはコーヒーとスパイスの兼用として活用していたが、長くは続かなかった。やはりコーヒーはコーヒー、スパイスはスパイスのままでいてほしかったからだ。仕方がないから2台目の電動ミルを購入し、新しいほうに油性マジックで「Coffee」と書き、古いほうに「Spice」と書いた。色も形も全く同じ2台のミルは、今でも自宅に仲良く並んでいる。
コーヒーのおいしい喫茶店がランチでカレーを出すケースは多い。だから、コーヒーとカレーというのは、昔から相性のいいコンビという印象が強いんじゃないかと思う。でもその理由がなんなのかを考えてワクワクしてしまうのは僕くらいなのかもしれない。興味があるのはそれらの成り立ちだ。とある植物のとある部位を採取し、焙煎して粉砕し、何らかの方法で加熱する。その結果、コーヒーが生まれ、スパイスで作るカレーが現れる。そしてどちらも素晴らしく香りがいい。味わう前に存分に香りを楽しむことができる飲み物であり食べ物である。なんて不思議でなんてロマンチックなことだろう!
毎朝のようにコーヒー豆を挽き、ドリッパーをセットして自分でいれる生活は、もう何年続いているだろうか。フィルターの中でモコモコと盛り上がってくる泡を眺めながら、鼻腔をくすぐるいい香りを楽しむ。あの瞬間はたまらない。熱した油の中で丸のままのスパイスがシュワシュワと優しい音を立てて揺れているときと同じ高揚感がある。ああ、やっぱりコーヒーとカレーは仲間なんだな、と思う。
「おいしい! 同じ豆でいれたとは思えないわ」
そう言ったのは、母だった。数年前の年末に帰省し、家族と団らん中にコーヒーでも飲もうかということになった。よせばいいのに「俺がコーヒーのいれ方を教えてやるよ」なんて偉そうなことを言って、いつもの豆を用意させ、家族の前でドリップを披露したのである。この〝面倒くさいコーヒーマニア〟によるプレゼンテーションは、意外なほどウケた。得意げにコーヒーをすする。実にうまかった。「やっぱりコーヒーはブラックに限るよね」といつか聞いた言葉が口をついて出そうになったが我慢して、僕はささやかな喜びを嚙みしめた。
1974年静岡県生まれ。カレー研究家。全国各地に出張し、カレーのライブクッキングを精力的に行う。カレーのレシピ集や専門店ガイドなど、カレーに関する著書は40冊以上。近著に『カレーの教科書』(NHK出版)がある。