COFFEE BREAK

文化

文化-Culture-

2021.09.14

エッセイ*土屋 守【 チベットの母とコーヒー。】

 もう40年以上も前の話になるが、一時期チベットに通っていたことがある。チベットといっても中国のチベット自治区のことではない。インド・カシミール州のラダック・ザンスカール地方のことだ。ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に挟まれたインダス河の源流部で、古来より西チベットとして知られてきたところである。ラダックとは「峠のあるところ」の意味で、文字通り周囲を5~6000メートル級の高い山々に囲まれている。最初に行ったのは大学4年の1975年で、その後、探険部の遠征、そして単独行と都合4回ほど訪れた。その私の最後の旅が1981年の2月から5月までで、冬のヒマラヤの生活を体験するために、ラダックのさらに奥地のザンスカール地方を目指した。すでに2度ほど夏に訪れていたが、旅の締めくくりとして、どうしても冬の生活を見ておきたかったからだ。

 旅はインダス河の支流、ザンスカール河の凍った氷上を歩くところから始まったが、最終的に1ヵ月半、500キロ近くを歩いて、最後はベースとしていた、ラダックの中心地レーに無事帰ることに成功した。その頃、レーで私が常宿としていたのが、バザールの奥にあるカーン家だった。ここをベースに長い時は3ヵ月近く、短い時で1~2週間、周辺の村々を訪ね歩くのが、その頃の私の旅だった。カーン家は最初の旅のときから世話になっていたが、1981年の最後の旅の一コマが、私には今も忘れられない想い出として残っている。カーン家は大きな家で、もともとシルクロードのトルキスタンの出先機関だったこともあり、部屋数は優に10を超えていた。夏は多くの旅人も出入りしていたが、厳冬期にレーを訪れる人はほとんどいない。標高3500メートルのチベット高原の街で、冬はマイナス30度を超える日も珍しくないからだ。最後の旅で、カーン家の主人が用意してくれた私の部屋は南向きの明るい部屋だった。

 カーン家の主人と書いたが、60年配の御婦人で、私は〝アマレー〟と呼んでいた。アマレーはチベット語でお母さんという意味で、そういえばアマレーの本名が何だったか知らない。いつもアマレーと呼んでいたからだ。御主人はトルキスタンの出身で、すでに亡くなっており、2組の息子夫婦と3名の使用人と暮らしていた。レーにいる間、私は旅の記録の整理をしたり、次の旅の準備などで、一日中部屋にいることが多かった。そんな時、いつもアマレーがやってきて、1~2時間私と過ごすのが、いつの間にか日課となっていた。

 チベット社会は、バター茶の世界である。朝起きてから寝るまで、人々は日に40~50杯のバター茶を飲んでいるが、アマレーは大のコーヒー党であった。レーの街は中国、パキスタンと国境を接しているため、1万人近いインド兵が駐在する国境の街でもあった。バザールには軍の横流し品も多く、アマレーはそこで大きな缶入りのインスタントコーヒーを買ってきて、大事そうに飲んでいた。日本でもお馴染みの世界的なブランドで、ただサイズだけが異様に大きかった。アマレーは私が登山用の小さい石油コンロを持っているのを知っており、たまに私がそれで紅茶を入れるのも見ていた。だからコーヒーも作ってくれると思ったのだろう。大きな缶を大事そうに抱えて、私とコーヒーを飲むのを楽しみにしていた。

 観光客のいない冬のラダックは静かで、そんな午後の早い時間に、毎日アマレーが私の部屋にやってきて、「ジュレー、アチョレー、カムザン。コーヒー・ドン?」と言って、声をかける。私はすでに石油コンロを用意して待っている。アチョレーとは〝兄さん〟という意味で、アマレーは私のことをそう呼んでいた。ジュレーはラダック地方の挨拶の言葉だ。カムザンは〝お元気ですか?〟のことで、ドンというのは〝飲む〟の敬語形である。アマレーは小柄で、ラダックの婦人がそうしているように長い髪を三つ編みにして、後ろでおさげにしている。上品で、そして何よりも優しかった。本気で私はラダックのお母さんだと思っていたし、アマレーも、あちこち出かけては帰ってくる私を、なにかと心配してくれていた。コーヒーを飲みながらアマレーと私は、その香りを楽しむかのように静かに、そしてとりとめのない話をして時間を過ごすのが大好きだった。アマレーが私に語っていたのは家族のこと。それも息子2人は一緒に暮らしているが、一人娘のニナはインドに行ってしまい、そこでナースをしているという話だった。時に息子たちの嫁のグチも出るが、もっぱら私の話の聞き役で、日本のこと、私の家族のことなどを飽きもしないで聞いていた。

 あれから、すでに40年が経つが、今でもアマレーの顔と、アマレーの優しい口調、そしてシュッシュという石油コンロの音と、コーヒーの味が忘れられない。どこにでもあるインスタントコーヒーだったが、貴重な砂糖を入れて甘くしたコーヒーが、私にとっては最高の味だった。

PROFILE
土屋 守(つちや・まもる)
1954年新潟県佐渡生まれ。5年間の英国生活、英国取材の経験を生かし、主にウイスキーや釣りなど英国のライフスタイルを紹介した著書、エッセイ等を多数発表。1998年「世界のウイスキーライター5人」の一人として選ばれる。
土屋 守
文 土屋 守/イラスト 唐仁原多里
更新日:2021/09/14
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