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COFFEE BREAK
文化-Culture-
カズオ・イシグロがコーヒーという存在に求めたもの
ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロが、最新作『クララとお日さま』の主人公に選んだのはAI(人工知能)を搭載したロボットだった。名前はクララ。彼女は、家庭で子どもたちの相手をするAF(人工親友/Artificial Friends)だ。AIが搭載されたAFは、それぞれが自分の顔をもち、性格も異なる。クララはショートカットの女の子で、フランス人と間違われることもあるが、クララを際立たせているのは観察眼の鋭さだ。
たとえばある日、店のウインドー越しに年配の男女が再会するシーンを目撃したクララは、久しぶりの再会を喜ぶ2人が、別の感情を宿していることを見逃さなかった。人は幸せの瞬間に、痛みを感じることがある。クララは、いつも人の感情の複雑さを理解しようとつとめていた。いつか誰かの役に立つために。
母と娘の貴重なコーヒータイム
クララを親友に選んだのはジョジーだ。母親を懸命に説得し、ジョジーはクララと一緒に暮らすことになった。クララはこの親子と店で会ったときから、2人の間にある溝に気づいていた。時折寂しそうな表情を見せるジョジー、愛情をうまく表現できない母親。そんな2人にとって大切なのが、朝のコーヒータイムだった。母親は毎朝、キッチンで家政婦のメラニアさんが淹れたコーヒーを飲むのが習慣だ。ジョジーはそこで朝食をとる。いつもなかなか起きてこないジョジーだが、嫌がっているわけではない。交わす言葉がほとんどなくても、静かにコーヒーを飲む母親と一緒に過ごす時間が、ジョジーの心に安らぎを与えるのだ。
母親も娘も相手に伝えることができない不安を抱えている。ジョジーの姉だった最初の娘を亡くした母親は、ジョジーを失うことが何より怖い。からだが弱いジョジーは自分自身の体調の悪さを母親に知られたくない。コーヒーは、物語の緊張をやわらげる役割も果たしている。
クララが、母親と2人でモーガンの滝に出かけたときも同じだ。一緒に出かけるはずだったジョジーは直前に体調が悪くなり、母親はジョジーを家に残して、クララと2人で向かうことを決める。現地に着くと母親は、まずコーヒーを買いに行った。木の板でつくったベンチに座ってコーヒーの入った紙コップを手に、クララに話しかける母親。ジョジー抜きで2人が会話を交わすのはこれが初めてだ。ここでもコーヒーが物語の緊張をやわらげる。母親の手に温かいコーヒーがある姿を連想するだけで日常の物語であることが伝わってくるのだ。
危うい関係を見事に描くカズオ・イシグロの世界
カズオ・イシグロは、人間の複雑な感情をていねいに描写する一方で、クーティングズ・マシンや向上処置、そしてAFなど現在の世界にないものを次々と登場させる。わかることとわからないことの危ういバランスで成り立っている物語にあって、身近なものの象徴がコーヒーだ。コーヒーが登場することで物語にリアリティが宿る。
2人の関係が少しずつ深刻になっていく。ジョジーの体調は悪化し、コーヒータイムにも起きてこなくなった。母親がAFを購入した理由も衝撃的だ。
クララは、ジョジーの幸せだけを願ってきた。どうすればジョジーに明るい未来が開けるのか。まず体調を回復させることが必要だと考えたクララは、大好きなお日さまにお願いすることにした。読んでいると、これほど深い愛情を注ぐことができるのは、クララが人間ではないからだと思わせられた。人間はAFよりもうんと身勝手で残酷だ。
アンドロイドと人間の関係を問うもうひとつの作品
家庭向けに開発されたアンドロイドを主人公にした『私だけの所有者』でも同様のことを感じた。Mr.ナルセのもとに引き取られたアンドロイドの「僕」は、家の雑事を引き受ける。このMr.ナルセの日常に登場するのもコーヒーだ。アンドロイドはMr.ナルセのために毎日コーヒーを淹れ、カップが空になれば注ぎ足す。何気ないこのやりとりが2人の安定した関係性を示す。
Mr.ナルセは自身のことをほとんど語らない。それでもアンドロイドは少しずつMr.ナルセに惹かれていく。Mr.ナルセのために自分は何ができるのか。どうすれば人間の心が読み取れるようになるのか。アンドロイドは懸命に考え、行動する。本書でも心に刻まれるのは、アンドロイドの人間への愛情だ。自分よりも所有者を優先することに一切の迷いがない。
AIは人間の心を理解できないと言われるが、クララもアンドロイドも心をもっている。愛することも知っている。人間の心を複雑なものにしているのは、私たちが自我と呼ぶ自分への愛着だ。2つの小説世界に、コーヒーを飲む日常が存在していたことにホッとした。
カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳
早川書房 2,750円(税込)
AF(人工親友)のクララは、14歳のジョジーが母親と暮らす家に引き取られていく。クララを親友として迎え入れたジョジーだが、母親にはひとつの計画があった。クララは最後までジョジーの幸せを願い行動する。
島本理生著
(『はじめての』発行 水鈴社/発売 文藝春秋 1,760円(税込)所収)
ある国の施設に保護されたアンドロイドの「僕」は、所有者であったMr.ナルセとの暮らしを振り返る。無口なMr.ナルセとアンドロイドはたしかに心を通わせていた。『はじめての』は、島本理生、辻村深月、宮部みゆき、森絵都による4作品を収録した短編集。